落花生栽培の発祥の地はどこだ!?
我が国最初の落花生栽培はどこで、誰が行ったのか? 諸説あるがキーマンは3人いる。
秦野で油屋を開業していた梅原太平(1835~1891)が横浜で異人豆として売られていた「蒸しピーナッツ」を食べ、その美味に絶賛し、倉庫にあった莢(さや)のままの乾燥豆を少量分けてもらい秦野に持ち帰り、親戚の国府村(現在の大磯町)の農家、渡辺慶次郎に播種を頼んだ。渡辺慶次郎は国府村の自分の畑で春4月、試作を開始したところ、その秋には土の中に落花生が実った。これが我が国最初の落花生栽培である。明治4年のことである。
出所:『慶次郎の贈りもの!秦野らっかせい物語』平成13年10月1日、豆芳商店より抜粋・要約
明治4年2月に中郡国府村字寺坂(現在の大磯町)の渡辺慶次郎さんが横浜に来た時に食べた異人豆とよばれていたものが美味しかったので一粒貰ってきて播いた。なんとか十数粒の落花生が収穫された。翌明治5年に京浜間を幾度となく往来した際に手に入れた五合の落花生の種子と昨年収穫した十数粒の種子を合わせて、中郡尾尻村(現在の秦野市)の梅原太平に頼んで近隣の人にも分与して栽培した。
出所:『横浜貿易新報』5718号、大正6年2月17日(土)(『秦野市史叢書第8集新聞記事』新聞記事から見た秦野のあれこれ、平成16年1月発行)より抜粋・要約
渡辺慶次郎さん(中郡国府村字寺坂)の栽培後2年の明治6年に隣村の二見庄兵衛(吾妻村字釜町、現在の二宮町)という者が別に横浜から種子を取り寄せて栽培し、8年頃には近所の知人にも分与して大いに培養した。明治15年に偶然二見庄兵衛の畑に一種異なるものが一株発生した。これが今の落花生であって相州落花生の元祖である。それまでの落花生は「ふく性」で栽培が大変な種であった。現在の落花生は二見庄兵衛さんによって発見された「たち性」の落花生の改良種であり、この発見がなければ今日の落花生生産の拡大はなかったといえる。
出所:『横浜貿易新報』5718号、大正6年2月17日(土)(『秦野市史叢書第8集新聞記事』新聞記事から見た秦野のあれこれ、平成16年1月発行)より抜粋・要約